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創作ごった煮
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画家の男は「あやか」と名前を呼ぶ。失った森を求めるニンフかなにかのように。





高良はもう戻ってくることができないのだ、と、彼の背を拭きながら思っていた。彼はこの世のほんのわずかしか視界に残さず、何度もあやか、と名前を呼ぶ。呼びかける。対象は画板、キャンバス、絵の具、筆、画材。ただし描かれているのは人ではなくて、画面はだいたい緑色。
その絵に評価を付ける人々は、「あやか」はニンフやシルフの類だと語る。風や森の精霊に魅入られた画家だと。でも真実じゃない。
あやか、は、綾香。実在した人物のなまえだ。高良が呼ぶのは綾香諒介、まさしくかつてのおれの名前。

高良の身体を拭き終わっても、かれはぼんやり描きかけの絵を見つめていた。おれよりむしろ高良のほうが、きっと精霊に近い。森から離され森を失ったニンフ。残るのは愛しかない、純粋無垢とはかけ離れた汚れた、けがされた愛しか。高良にとっての「綾香諒介」は失われた森で、実際かれと日々をともにしたその名の男はどこにもいない。
おれたちが過ごしたのは、外国の寄宿舎によく似た私立の小学校だった。その中でおれと高良はふたりだけだった、のに、おれは途中でそこを去った。しかも突然のことで、高良は突然たったひとりぼっちにされてしまったのだ。
その後かれがどう過ごしたのか知らない。でも、経歴に美大卒とあるから、そのあたりまではなんとかやってきて、きっとそこからおれがまた出会うまでの間になにかがあって、今みたいに昔の「あやか」ばかり縋るようになってしまった。
ほとんど一日、高良は絵から離れようとしない。描いてなくても画材のそばに居て、風呂や食事のため違う部屋に行かせようとすれば泣く。離さないでくれ、ひとりにしないでくれ、って。いちばん離れるので、直接行けるように取り付けたトイレだけだ。それもドアを閉めない。だからおれは毎日食事を運んで、身体を拭いてやるのだ、おれに向かないおれを呼ぶ声を聞きながら。
あやか。
すこし震えたか細い声。不安げで、子どものころからちっとも変わっていないおとこ。あやかはもう居ない、言いたいけど言えないし、高良もわかっている。わかってないのは存在が目の前にいるということ、それも言えない。言っても聞こえないんだろうけど。
おれは今、高良の見ていた「あやか」とは大きく違ってしまっている。あの学校を辞めたとき、おれの両親は離婚して苗字が変わった。それだけじゃない。
清拭した布を桶に入れて立ち上がる。ひらりとスカートが揺れ、顔にかかった茶色く波打つ髪をうしろに流す。おれは、もう、おれのことをおれと言わない。かれの望む「あやか」という苗字の男は、もう、どこにも。
口紅で赤くした唇で、聞いちゃいないだろうあいさつをして、部屋を出る。あやか、と声がして、おれはやっぱり振り返れない。




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